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または私は如何にして心配するのを止めてバグを愛するようになったか

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ユーザーインターフェイスのリニューアルにおけるユーザーの覚えなおしコストについて

はじめに

 そういえば、最近はUbuntuからWindows 8を使いなおしている。なんでWindows 8をあえて使っているのかというと、それはいろいろな人が「使いにくい」と言っていたからだ。だから、その使いにくさを体験したいために、あえて使ってみているんだけど、その評判と違って普通に使いやすくなっていて驚いた。

 少なくとも以前みたいな「スタートメニュー地獄(何かのアプリをインストールするたびにフォルダが増えていくアレ)」はなく、基本的にスタートのタイル画面からアプリにアクセスすることを考えると悪くない。そしてそのタイル画面にアプリを登録するのも簡単だ。また、それらのライブアプリを並べることが出来るので、デスクトップ画面で何かを作業しながら、スケジュールを入力するのも楽だ。それらの基本的にアプリにしても検索を中心にアクセスするという意味ではUbuntuのUnityで慣れているので、悪くはない。これはこれでユーザーインターフェイスとして「こういうのがいいんじゃね?」という提案としてすごくよい。

 だからといって、じゃあ「使いにくい」といっている人達を悪くいいたいのかというとそうではない。この問題は、よく言われている「ユーザーインターフェイスをリニューアルすると既存のユーザーからすごく反発を食らってしまう」という問題とクロスしていると感じたからだ。

 最近だと、大幅なリニューアルを行った結果、アプリのレビューにたくさんの反発を食らってしまったという事例が紹介されていた。そういうとき、アプリ開発者としては、「そんなことでアプリが低く評価されてしまったらたまったものではない」という声が聞こえてくる。もちろん、自分もWeb系開発者として、席を汚している人間としては共感するが、しかし自分としては「ああ、この問題というのは根深いものなのだ」ということにも気が付かざるを得ない。

熟練者問題

 まず一つに、最近読んだ本で感心した内容を紹介したい。それは下の本に書いてあるものである。

ヒューマンコンピュータインタラクション入門 (Computer Science Library)

ヒューマンコンピュータインタラクション入門 (Computer Science Library)

 この本は「GUI (= Graphical User Interface)」の章がある。いま、我々が使っている多くのユーザーインターフェイスは、このGUIを中心に構成されているわけだ。逆に「黒い画面と白い文字」という風に言われる画面は「CUI(=Character User Interface)」と呼ばれている。

 さて、この「GUI」の問題について、この本では、「熟練者問題」というのを提示している。この論点は、あまり意識されないことでとても面白いと思う。

 普通、コンピューターにおいて、「初心者にとって使いやすいのか」という話が出てきて、「熟練者にとって使いやすいか」という視点は出てこない。というのは、普通熟練者というのはコンピューターリテラシーに優れており、提示されたユーザーインターフェイスに対してすんなり適応することが期待されているように感じる。

 しかし、通常、熟練者であっても「このように操作したい」という一連の操作の流れというのを組み立てている筈だ。例えば上記の例であるならば、熟練者はマウスを使うことを好まない。出来るだけキーボード操作で組み立てたいと思う。そのように、初心者が、ユーザーインターフェイスを組み立てることを覚えるとするならば、熟練者はもとから持っているユーザーインターフェイスに向き合うための操作を崩さなければならないという問題が発生する。

 この手の問題を、少なくとも「熟練者問題」とするのは、決して無駄なことではないと思う。例えば、Web系の開発においても、熟練者になるにしたがって、自分の考える開発の流れを崩すことは難しい。例えば、クラウドコンピューター、あるいはIaaSやDasSなどの、新しいエコシステムが形成されるにつれて、そのエコシステムを上手く利用して、開発コストを下げるという発想になることが難しい。少なくとも学習コストの低い方向に流れるほうは疑いようがない。

 また「熟練者問題」が根深いのは、あるサービスに対して、熟練者になればなるほど、そのサービスに対して「過剰適応」とも呼べるような適応をすることがある。例えば、動画投稿サービスにおけるキャプションについても、よりよいキャプション表現をするために、そのキャプションに対する表示形式を使って面白い表現をしようと模索する。しかし、システムの仕様として、そのキャプション表現に対して仕様が変更されてしまうと、その「最適な表示形式」が一気に「最低の表示形式」に変化してしまう。

 Windows 8の場合を考えてみよう。実は、俺はWindowsから4年ほど離れ、さらに言うとUbuntuでも、いわばGUIの表示を「より表示の軽いもの」にするために、Awesomeというウィンドウマネージャを使っていた。そのときに、基本的にメニューからアプリをアクセスするということ自体が負荷になっていた。そのため、基本的にコマンド入力によるアプリの立ち上げという操作方法に変化した。

 しかし、ほとんどのWindowsの愛好家は、メニューからアプリにアクセスするように、操作体系が組み立てられている筈だ。少なくとも、Windows 8に対して「使いにくい」といった人たちの根拠というのは、「メニューボタンが存在しない」ということだったように思われる。

学習コストをもう一度支払わせることの問題

 もしかしたら、何かの本に書いてあるのかもしれないが、自分の印象からすると、ユーザーインターフェイスを変更するということは、そのユーザーインターフェイスに対する学習コストをもう一度支払わせることになる。ユーザーにとっては、「イケてるユーザーインターフェイス」よりも、どんなものであれ、「自分が慣れた操作の邪魔をしないユーザーインターフェイス」のほうがより素晴らしいということになる。

 これは長く使っている人になればなるほど重要な問題だ。例えば、ユーザーインターフェイスを三回、大胆にリニューアルしたとしよう。三回目のユーザーインターフェイスで入ってきたユーザーは一回の学習コストで十分になる。しかし、最初から使っているユーザーにとっては、三回のユーザーインターフェイスに適応しないといけなくなる。

 普通、「学習コストを支払う」ということは、そのコストに対して何らかのメリットを期待している筈だ。初心者の場合、「学習コストを支払う」ことに対して、「そのアプリを使いこなしたい」という明確な動機づけが存在している。したがって、「学習コスト」と「コストを支払ったことに対するメリット」は同じになる。

 しかし、これが熟練者になるとどうだろうか。

 熟練者になればなるほど、既存の操作体系に慣れている筈だ。それを考えた場合、そもそも「学習コストを支払う」ということに対して、それほどメリットはない。それどころか「既存の使い方を行いたい」というネガティヴな動機づけになるはずだ。さらにいうと、そもそもそのユーザーインターフェイスのリニューアル自体が、その「既存の使い方」を「間違っていること」として破棄する場合、多くのユーザーは混乱するはずだ。

 そこでさらにいうと、熟練者は「適切なユーザーインターフェイスを求める探究者」ではないということだ。それは多くのユーザーと同じように「そのアプリを適切に使って、自分の欲求を満たそうとする」、善良な消費者であるに過ぎない、と自分は感じる。彼らの本位は、「そのユーザーインターフェイスがなぜ使いやすいのか」という分析ではない。だから、自分の操作体系をバッティングするとすると、端的に「使いにくい」という印象であり、その印象を前提として、そのアプリが如何にダメかを長々と述べるかたちになるだろうと思う。

 だからこそ、例えば業務アプリケーションに対して「Excelのような表計算」が出てきてしまうのは、それが最も彼らに慣れている操作体系であるからだ。

熟練者に対して「学習コストを支払ってもよい」と思わせるユーザーインターフェイスが一番難しい

 そこで、「ユーザーインターフェイスのリニューアル」というジレンマがわかってきたと思う。よく皮肉として言われるように、「ユーザーは、インターフェイスをリニューアルしたときに、不満を述べるものだ」ということである。事実、そのインターフェイスに慣れるにしたがって、段々と不満を述べなくなる。これをもってして、「ユーザーのわがままをどのようにして受け流すか」という議論をするのはたやすいことであるだろう。

 しかし、むしろ重要なのは、無意識のうちに「熟練者」という問題を排除しているように思われる。何度もいったように、「熟練者」に対して、コンピューターリテラシーの非常に高い人間であることを期待するのだが、そのリテラシーは、悪意を持っていうならば、我々が慣れ親しんだメンタルモデルの一つにすぎないように感じる。

 とすると、ユーザーインターフェイス・リニューアルの課題として、僕を含めたWeb開発者が意識しなければならないことの一つとしては、どのように「熟練者がそのユーザーインターフェイスに慣れ親しむことにメリットを提示するべきか」ということを実は考えてもいいのかも、と思い始めている。もちろん、そう問題提起してみたとしても、「じゃあどうするの」と言われたら口ごもるしかなくなってしまうけれど、そういう部分をどのように考えるのか、いま気になっている。