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または私は如何にして心配するのを止めてバグを愛するようになったか

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意識が高まる前に、人にやさしく

 まず自分が反省したことから始める。

 仕事で、余りにも茶化されたり、細かいことを言っていったりしていたので、少々怒ってしまって、それで少し乱暴な行動に出てしまったことがあった。そのことを持って「あいつはダメだ」みたいなことを知人に愚痴ったりしていると、「いや、お前の言うことはわかるけど、お前がやるべきミッションというのは、そういうダメな人にとっても優しい環境を作ることなんじゃないのか」と言われた。それは本気でその通りだなあと思って、自分の浅はかさを恥じると共に、そういう風に忠告してくれる知人がいることにとても感謝したりしていた。

 自分も、変に向上心つーかプライドのあるタイプなので、どんどん技術を磨きたいと思う一方で、そういう「向上心を持つ」ことを正義と考えると、向上心を持たない人間に対して、段々と苛々し始めるというのはあると思う。しかし、そういう風に苛々しはじめて、あーだこーだ言い始めるのは、それこそ、いわゆる「意識の高い人達」が陥りやすい罠だと思っている。

 実は、僕は「意識が高いこと」自体に関しては、それは個々人の勝手だし、彼ら自身が成長したいという意志の現れであるのだから、それは全くいいことだと思っている。ただ、やっぱり知人達が僕に忠告してくれたように、誰かを貶したりして、自分の優位性を保つようなふりをしてはいけないとおもった。

 基本的に、どんなプロジェクトであれ、人間関係であれ、スキルというものはまだらだと思う。僕はPythonなら、それなりに詳しいことを自負できるとは思う一方で、やっぱりサーバーに関しては詰めが甘いだろうし、iOSのスキルに関しては全く無い。むしろ僕がやるべきことなのは、そういった人達に対して「なんで出来ないの」とぷりぷりすることではなく、「この人が出来ないんだから、出来るようになるには、どういうものが必要なのだろうか、自分は何が用意できるんだろうか」と考えることのほうが重要だ。有能な人間というのは、周りの人間も引き上げるような基盤を作ることが出来る、と僕は思う。もちろん限界はあるけどね!

 上のことを見ながら、最近コードを見ながら、「ちょっとこれは何があるなあ」というバックエンドのテストを書いたりしていた。そこには、確かに非同期処理であったり、キャッシュをふんだんに使っており、なるほど豪華に見える。しかし、それは全くオーダー数とかそのあたりを考慮に入れていない戦略を取っていたものだから、逆にあまりにもテストがしにくいものになっていた。さらに言えば、殆どドキュメントも無い状態だった。

 もちろん、プライベートでは、テストコードを書きながら一貫性が取れないものだから、一言二言恨み言を言いたくはなったが、冷静に考えてみると、自分もこういう「技術ありきで採用してしまって、色々と不十分になってしまったことがあったなあ」と思ったりもしたし、テストを書きすぎて身動きが取れなくなったことがある。他人から見たら俺のコードもこういう感じなのだろうな、と思って、少し反省したりしていた。

 もちろん、そうしなければ必然的にプロダクトの負荷がかかりすぎてどうしようもないとか、そういう状態であるならば、仕方ないのだけれど、そういうところが無いときには、まず「他人にとってそれがやさしいかどうか、ストレスがないかどうか」を考えるべきなのだろう。「他人にとって」というのは、同じ開発者とか、そういうことだ。

 仏教には二つの概念がある。一つは「上座部仏教」と「大乗仏教」というもので、「上座部仏教」が「悟った人のみが救われる」という発想の仏教である。しかし、「大乗仏教」というのは、「悟った人が現れるとみんなが救われる」という発想の仏教である。どっちが正しいかは、俺はしらない。しかし、大乗仏教のことを考えると、「ああ、悟った=意識が高まった人というのは、みんなを救ってくる存在だし、もし意識が高まったら、周りをどうやって引き上げるかのことも考えるべきなんだろうなあ」と思ったりもした。

蛇足

 上の話は、自分が多少なりとも環境を変えることも出来る立場にいるときの話であり、現状として少数のメンバーで影響を与えることが出来るからこういうことを考えるのであって、そういう場合でないのならば、ニコニコしながら他のところに行くことを考えます。