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または私は如何にして心配するのを止めてバグを愛するようになったか

>> Zanmemo

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Wired Conference 2013 の裏側でBinbo Conferenceをやっていたお話

いきさつ

 つい最近、Wired Conference 2013というものがありました。テーマは『オープン・ガバメント』というもので、要するに市民に開かれた政府とはなにか、ということだったらしいです。当然、市民に開かれた政府というテーマ自体はそれほど新しくなく、実際に中学生か高校の、公民の教科書には『知る権利』、すなわち市民は情報を得る権利があるということくらいは書かれているのではないでしょうか。ポイントは、むしろ開かれた政府というテーマ自体が、テクノロジーと結びついているということです。

 で、知り合いの人たちが、『オープン・データ』の活動に関わっていたりしている関係で、今回のWired Conferenceのテーマも注目していたのですが、とにかく高い。一万円。諸経費を考えると仕方がないのでしょうが、とはいえ普通の市民は一万円をWired Conferenceに使うなら焼き肉を食べに行ったりするわけで、とても開かれているとはいいがたい。そんなことより酒飲もう、というわけで、そういう義憤をダシにアールエムバーガーというメイドバーガー屋に集まったのが、このBinbo Conferenceでした。

 主催者の方々は、仕事が忙しく、準備もろくずっぽできなかったとはいってましたが、元々の関心事がかぶっているのか、同じような人々が集まったためか、非常に活発かつ、着飾らない等身大の意見が多くあったのがよかったなあ、というのが自分の印象です。こういう政府の話って、シャカイコーケンとか、当然考えるのでしょうけど、それだけだと続かないよね、という根本的な話が出てきてよかったかなと。

全体について

 まず自分の話をするまえに、全体の発表から。

 このBinbo Conferenceのテーマが、元々『ネットの力で社会を都合よくする』というのがテーマでした。良く言うと、自分たちの周りの課題を解決することが、他人にとっても役に立つのではないか、という話でした。自分なりに噛み砕いていうと、まず自分のやりたいことというか、欲望みたいなのが前提にあって、それって意外と社会的な問題でもあるんじゃないか。というより無理矢理社会的な問題にしてしまおうということです。例えばスライドにあるように、飯が高いとか、得てして「じゃあ松屋で我慢しろ」と言われるような問題でも、実はそれも社会的問題なんじゃないかと。また意外と貢献って、自分が威張りたいとかそういう欲に支えられているよね、という話をしていました。

 こう言うと不純なような気がしますが、ただボランティアで廻していたりする当事者達にとっては、割と切実な問題で、それは何故かというと、そういう直接的に利益を享受できないような人々、あるいは強烈な動機付けがない人々にとって、ただ「社会貢献」という名目だけだったりすると燃え尽きてしまい、以降関わらなくなるという問題が結構出てきます。むしろ、ある程度まで自分の利益として享受できる部分が無ければ長続きというか、持続可能な活動にならないのではないか、というフォローをされていました。当然、利益とはいえ、フェアネスが前提にあってのことかもしれませんが、ただ「滅私」というのは不味いというのは同意するところです。

 また、Fablab秋葉原の設立を検討している方のスライドも面白かったです。まず「チープであること」を前提に持ってきたのが、自分に取っては面白いな、と思います。実は、このあたりは「RPGツクール」や「HSP」というプログラミング言語のことを考えたときに思ったのですが、安っぽいっていうのは否定的ではなく、むしろつかいやすさとか、手頃さとか、そういうのがからんでくる。例えば、Lightweight LanguageなんてToyだなんて言われてた時期もあるようですが、現実的には研究者の人が簡単にデータを計算したり、あるいはちょっとブログを飾るために使われている。「モノを作れる場所」ではなく、「モノを作れるようになる場所」というは本当にその通りだと実感します。

 その話をききながら、知人がコワーキングスペースでRubyとRailsを教えて貰いながら、仕事を発注して貰っていることを考えていました。例えば図書館の問題とかもそうですが、3Dプリンタがポンとおいているだけではダメで、3Dプリンタの使い方、ソフトウェア、マニュアル、そして教えてくれる人、そういうものが整って始めて、その場所が活用できる可能性がある。ただ設備があるだけではまずくて、再帰的に「その設備自体の使い方を、設備が教えなきゃいけない」という状態はまさしくその通りかと思っています。

 また日本語Markdown協会の話も出てきました。エンジニアにとって、方言と記法のゆれがあって、手頃ではありつつも、いまいち使いづらいように感じるMarkdownなのですが、これが立ち上がった意図というのが、むしろ「PDFとかはクソだから潰したい」という意図があるからだそうです。PDFは使い辛いし、加工もしにくい。むしろMarkdownのような、人間に優しく、なおかつHTMLに直すライブラリがある程度揃っている記法がメジャーになるべき。テキストは基本的に扱いやすいデータフォーマットだし、GitHubのようにバージョン管理と非常にマッチしている。そういうものが必要であると。最終的には、Markdownという名前がなくなって、普通に「まあそうやって書くのが当たり前だよね」という、つまり意識せずに使えるくらいに普及して欲しいという気持ちがあるそうで、記法自体より、その意図に深く心をうたれ共感しました。

 そのように、全体的に共感の多い話が多かったのも特徴で、意外とみな同じ事を考えているんだな、ということは勇気づけられる点でもありました。

自分の話について

 自分のスライドについては下から。

 このスライドは、自分が普段考えていたコンセプトみたいなものをまとめたものです。どうやらそこそこ受けたようで、40 Bookmark頂けたので、ありがたいことです。で、以下は蛇足です。

話の内容

 そもそもまず最初に所有とは何か、というのを考えないといけない。そのヒントとして、土地の所有権というのがある。土地の所有権のは不思議なもので、例えば本屋で万引きするのとは違う。当時、囲い込み運動といって、羊とかを飼うために、土地を柵で囲って「俺の物だ」みたいな所有権を主張する、みたいなことがあった。土地の所有っていうのは、まず「お前ら入ってくるな」という話があるように感じる。

 実は、同じような所有の概念がある。それはKindleなんです。Kindleは、基本的に本に対して「アクセスする権利」を売っている。だから、Amazonのさじ加減で「この本はもうアクセスできないよ」ということが出来る。これって実は今までの本のありかたとはだいぶ違う。だって買ったあとに本が取り上げられたりしないんだけど、Kindleだったら可能だったりする。

 ただし、一方でDRM FreeというのがOraillyがやっている。これは読者を信用して、「基本的に自由にする。だってそうじゃないと面倒くさいでしょ?」という。これはKindleと真逆の考え方ですね。

 つまり、情報には、まず「アクセス権」というのが存在している。

 世界史的に見ると、初の成文法とかはどうでしょうか。成文法以前は、裁判官が曖昧に法律を裁いていました。しかし、文章にすることで、始めて市民が「法律」というものと照らし合わせて「お前間違ってんじゃねえか」という話をすることができる。

 同じ事は、ルターの聖書にも言えます。元々牧師がいて、その牧師の解釈した聖書の内容を市民が鵜のみにするしかなかった。しかしルターが聖書の翻訳をすることによって、信者なら誰でも聖書の中身に触れることが出来るようになった。

 これらは、つまり自由にアクセスできることを保証している。自由ソフトウェアの運動家としてストゥールマンがいる。GPLなどがソースのコードの公開にこだわるのは、自由というのは何かにアクセスする権利だからです。

 しかし、一方でアクセスさせてはいけないものもある。例えば、オープンデータで注目を浴びているのは性犯罪者のデータだったりします。とはいえそういう個人情報って闇雲に公開されていいのか。最近の事例だと、Facebookで誕生日パーティーの情報を公開したばっかりに、200人の暴漢が集まってめちゃくちゃにするという事例がありました。

 日本でも、犯罪者の家族って、なぜか生活がめちゃくちゃになる。問題は、加害者当事者であるのにも関わらず、周囲が全て破滅してしまう。例えば婚約が解消されたり、とか。それを考えると、ただ公開されるべきってわけじゃない。

 しかし、なぜ知識は囲い込まれるのでしょうか。プラグマティストと呼ばれるジョン・デューイの話が面白いです。それは「知識は力であり、力たりえないものは知識ではない」と述べています。つまり知識は力であるからこそ、囲い込んで、自らだけの、あるいは対価を払ったものにしか知らせたくない。

 自分はエンジニアをやっているのですが、ある程度まで自分の職業を職業として成り立たせるために、何かと情報をしってなくちゃいけない。これを、左派系の本である『プレカリアートの詩』では、認知労働者と呼んでいる。つまり、「知ること」が仕事になるという状態がある。

 とはいえ、「アクセス権」を保証しただけでは何の意味もない。例えば政府の文書とかでも、「公開しましたよ」といったときに、「何処にあるんじゃハゲ」という文書があるわけです。ですから、まず一つに発見しやすさが重要になる。

 同時に、皆さんはエクセルのデータをパースすることに苦労したことがほとんどだと思います。また加工しにくいPDFとかに出会ったことがあると思います。ただつかいやすく、見つけやすかったとしても、今度はつかいにくくするという手がある。これも問題。つまりユーザビリティであり、リーダビリティですね。

 さらに話を続けます。例えばときどき、情報に対する反情報的な話が出てきます。もちろん、情報に振り回されるのは良くないと思う一方で、知識をもっている人は知識があることを当たり前に思うんです。ですが、皆そうではない。これをブルデューという人は文化資本の問題と述べています。

 知人に教授の息子がいたのですが、そういう息子って研究とか読書とかやたら詳しいんですよね。そういったように、生まれとかで教育ってのは再生産される。

 永山則夫という死刑囚は、例えば監獄の中で始めて文字を覚えたりします。結構面白くて、教科書とか、キルケゴールの本を持ち歩いたりとかしてたらしいんですよね。それを考えると、本当に知らせるだけでいいのか。

 エンジニアの人たちって「啓蒙」って言葉が大好きで(笑)、確かに啓蒙しないよりは、啓蒙したほうがよっぽどマシなんです。しかし、実は啓蒙しなくても使える状態が理想なんです。啓蒙したとしても、それには限界がある。むしろつかいやすいツールとか、そっちのほうが重要だったりする。例えばRubyとかPythonとかね :P

 これらの話には、自分は結論はありません。ただ、問いを投げっ放しにしたいと思ってます。ただ、自分なりに、考えていることもここで伝えます。

 一つのベクトルとして「情報を編集する」という視点がある。なぜデータ・ヴィジュアライゼーションが注目されているかというと、要するに生の情報ってわかりにくい。もちろん、それが読み解ければいいんですが、そうではない。ちゃんとわかりやすく提示する必要がある。

 そして、もう一つにはマッシュアップ、つまりデータとデータを組み合わせ、その関係性から事実を読み解いていく。あるいは組み合わせやすくすることにより、検証しやすいかたちにする。

 さらに言えば、情報を載せやすいようなコラボレーション・ツールが必要になる。例えばWikipediaであったり、GitHubであったり。これらは、コラボレーションというベクトルを変えました。

 僕は江添亮さんがC++の教科書を公開したときに、教科書は自由であるべきだといいきって無料で公開したのが大好きなんですね。で、オープンデータとか、そういう話をしたときに、お金にならないんじゃないの、って言うのもさけられない。だけども少なくとも希望はある。

 例えば、フリーミニアムの考え方ですね。あるいは、このランニング・リーンを見たときに面白かったのは、最初の頃は無料だったんですね。むしろ公開することによって、鍛え上げて、製品たりうる質にまで持っていった。決して無料で公開するということは、ビジネスと相判するわけではない。

 最終的にどうするのか。僕はアランケイのdynabook構想のことを思い浮かべます。最近だとプログラマブルな家電というのが出てきてます。要するに外部から操作可能な家電です。それってdynabookだなあと。要するに子供たちにとって環境を組み替えられるようなノートパットがいると。

 そこでSmalltalkという言語、というより環境が大切になるかなと考えます。つまり、環境自体をどんどん自分たちにとって組換え可能なものにしていく。要するに環境を自分たちの手によって、メッセージを送ったり、送りあったりすることで変質させていく。そのようなものが未来のような気がします。

 長々と偉そうな話をしてすいません、自分の考えていたことはここで終わりにしたいと思います。